民謡酒場を舞台に三味線を掻き鳴らす!魂に響く音色に魅せられた、伝統芸能の若き担い手

レッド

written by 川西里奈

1960年代、東京の街を賑わしていた民謡酒場。地方から東京へと上京した人々が、ふるさとの民謡とお酒を楽しむ場として栄えていたのだそうです。
今では数少なくなった老舗の民謡酒場のひとつ、和ノ家 追分(かずのや おいわけ)」で、三味線奏者として活躍している椿俊太郎さん。民謡が盛んな富山県に生まれ、22歳という若さで伝統芸能の道を突き進む椿さんに、現在の活動や三味線の魅力について教えていただきました。

椿俊太郎(つばき しゅんたろう)

椿俊太郎(つばき しゅんたろう)

1999年富山県高岡市出身。3歳の頃から⺠謡三味線・唄を礒部城峰師に師事。中学入学と同時に胡弓を福島豊師に師事。高校卒業後に上京し、津軽三味線奏者の椿正範師の内弟子に入り師事する傍ら、東京浅草の津軽三味線・⺠謡ライブを行ってい る、“⺠謡酒場 和ノ家追分”にて専属として出演中。かつしかFM「麻生みどりのいろはに⺠謡」準レギュラー。2021年に小町俊太郎改め、津軽三味線椿流名取“椿俊太郎”を襲名。

若き演奏家が盛り上げる、民謡酒場「和ノ家 追分」

__和ノ家 追分とはどんなところなのでしょうか?

 

椿俊太郎さん(以下、椿):和ノ家 追分は津軽三味線や⺠ 謡・舞踊のライブをご覧いただきながら季節の料理・お酒をお楽しみいただける⺠謡酒場です。

 

元々は「浅草追分」という1957年から61年間営業していた民謡酒場があったのですが、2018年末に閉店してしまいました。その後、2019年に先代の女将の思いを引き継ぐべくリニューアルオープンしたのが、この和ノ家 追分です。

 

65周年を迎える現在、在籍する演奏家や民謡の歌い手のメンバーは9名ほどで、みんな20〜30代です。ステージは基本的に定休日の月曜日以外、毎日19時と21時の2回行われます。

▲浅草千束通りにある「和ノ家 追分」の入り口。

 

__演奏家の皆さんは、意外にもお若い方が多いのですね!

 

椿:一番下が22歳の僕ですね。メンバー同士年が近いのもあって、仲間であると同時に三味線の大会などではライバルでもあります。毎日切磋琢磨して腕を磨いています。

 

__お客さんはどういった方が多いのでしょう?

 

椿:コロナの影響を受ける前は、外国からのお客様が多かったですね。今は⺠謡・三味線愛好家の方や、お店の前を通りかかって気になったからと入っていただく方などさまざまです。

 

__俊太郎さんは毎日ステージで演奏されているんですか?

 

椿:お店に出演する曜日は決まっていて、それ以外の日は コンサートや企業のイベント、老人ホーム、⺠謡のイベントなど日本全国いろいろな場所で演奏活動をさせていただいて おります。

▲地元北陸などでの出演も多く、幅広く活動する俊太郎さん。

 

中学生のとき「三味線で生きていく」と決意

__三味線を始めたきっかけは何だったのでしょう?

 

椿:僕は姉の影響で3歳から三味線を始めました。姉の友達のお祖父さんが民謡の先生で、その稽古場へ行くようになった姉に付きそう母のお腹の中で、僕は民謡を聴いていたんです。1,2歳の頃には⺠謡の大会や発表会で三味線の音が聞こえる 所に駆け寄って良く迷子になっていたみたいです(笑)。その頃から三味線の音が好きだったんだと思います。

 

稽古場に行くと周りの人に可愛がってもらえたりお菓子がもらえるのが楽しみで、最初は遊び感覚で⺠謡や三味線に触れるようになりました。中学2年生のとき唄の大会に出場し予選を通過して、東京で行われる大会へ行くことになりました。そのとき父といっしょに訪れた浅草追分で、中学生ながらに圧倒され「自分もいつかここで働きたい!」と感じたのを覚えています。

▲幼い頃からおもちゃのギターを三味線代わりにして弾いていた。

 

__そこまで強く三味線をやっていこうと思ったのはなぜだったのですか?

 

椿:そのとき初めて津軽三味線の演奏を生で聴いたんです。それまで民謡の伴奏というイメージだった三味線の印象が一気に覆り、衝撃を受けました。

 

少しマニアックな話になりますが、三味線には細棹、中棹、太棹という大きく3種類があり、それぞれまったく弾き方も違います。細棹は長唄、端唄、小唄などに使われる三味線、中棹は民謡三味線、太棹は津軽三味線に使われます。その中でも津軽三味線(太棹)は、唄や踊りがなく三味線だけの独奏で弾かれることもあるんです。

 

初めて訪れた浅草追分で、力強い音を鳴らし心を揺さぶるような迫力のある津軽三味線に魅了されました。自分をこんなに表現できて、人に感動を与える楽器は他にないと感じ、たとえ追分に入れなくても何が何でもずっと三味線で生きていく、そう決意しました。

 

__それ以降、津軽三味線を練習しているのですか?

 

椿:いえ、富山県に戻り師匠に「津軽三味線をやりたい」と話すと「まだだめだ。中学校卒業までに民謡の三味線をまともに弾けるようになったら、津軽三味線の師匠を紹介する」と言われて、それから中学校を卒業するまで必死になって民謡の三味線を練習しました。

 

朝から晩まで寝てるときとご飯を食べているとき以外は三味線を弾いて、撥を持つ手、糸を押さえる指は血だらけになっていました。遊びたい気持ちもありましたが、それ以上に津軽三味線が本当にやりたかったんです。

 

▲礒部城峰師匠といっしょに演奏している様子。

 

__その後憧れだった追分という舞台に立つことができたのですね。

 

椿:民謡が盛んな富山県では、大会やイベントが度々開催されていて、そこで追分社中の皆様がゲストとして出演されることがありました。そのときに「僕も高校卒業後には追分で働きたいです」と楽屋にお邪魔させていただき話しをしたところ、今の師匠(椿正範師)から女将の服部章代さんに連絡をしていただくことができました。そして高校3年生の夏に体験入店を経て、卒業後に上京したタイミングで正式に入店。演奏家として働く傍ら、椿正範の内弟子として師事する事になりました。3年間の内弟子を経て、2021年に椿の名前をいただきました。

 

__三味線のむずかしさってどんなところでしょう?

 

椿:音に響きを出すのがむずかしいですね。三味線は単音で糸は3本しかありません。ギターのように音程を決めるフレットもコードもないので、練習して感覚を掴むことがとても大事です。

 

津軽三味線にいたっては、譜面もないので奏者によって音色がまったく違うどころか、毎回曲の雰囲気まで違ってきます。

 

撥の角度などによって音質が変わったり余韻が生まれたりと大きく変化します。正解はないですから、師匠から受け継いだ技術を元にどのように自分なりの音を奏でるかを追求していくのが、三味線のむずかしいところでありおもしろさですね。

▲和ノ家 追分のステージで演奏する俊太郎さん(中央)。

 

日本の伝統芸能を後世に引き継ぎたい

__今でも毎日練習をされているのですか?

 

椿:そうですね。お店が始まる前に早めに来て練習したり、家の近くのカラオケなどで休まず4,5時間弾き続けることもあります。定期的に全国各地で三味線の大会が行われていて、今度の4月には浅草で津軽三味線の大きな大会があります。今はその大会で優勝するのを目標に練習をしています。

 

__三味線をやっていてよかったと思うときはどんなときでしょう。

 

椿:演奏を聴いていただいたお客さんに「感動した!」と言ってもらえるときですね。老人ホームに演奏をしに行くこともあるのですが、「昔を思い出した」と涙を流して喜んでくれたおじいさんがいて、そのときは本当にやっていてよかったなと思いました。そういった瞬間があるので、それを励みにまた頑張ろうと思えます。

▲老人ホームへ出張しての演奏の様子。

 

__すでにお弟子さんがいらっしゃるそうですね。

 

椿:子ども向けのテレビ番組がきっかけで三味線に興味をもったという6歳の子が、近辺で稽古をしている僕のHPを見て来てくれて、それ以来マンツーマンで教えています。最近ではオンラインの三味線教室、胡弓教室なども行っていて、まったく初心者の方も大歓迎です。

▲6歳のお弟子さんとの稽古。

 

__今後の目標などあれば教えてください。

 

椿:日本の伝統芸能である民謡や三味線は絶対になくしたくない文化なので、師匠や先輩たちから受け継いだものを次の世代に引き継いでいきたいです。初めて聴く人にも何度も聴いている人にも感動を届けられるような三味線奏者になって、もっともっと多くの人に魅力を知っていただけるように頑張りたいと思います。

 

取材を終えて

取材の後、実際に和ノ家 追分のステージを拝見させていただきました。生で体感する津軽三味線の演奏は圧巻の迫力。それまで民謡に抱いていた年配者向けの音楽というイメージは一瞬にして打ち砕かれました。

「僕、壁にぶち当たるほど燃えるタイプなんですよね」と笑顔で話す俊太郎さん。三味線の演奏は思っていた以上にむずかしそうですが、その壁を乗り越える瞬間がたまらないそうです。伝統芸能の世界に新風を巻き起こす椿俊太郎さんの今後の活躍がとても楽しみです。

▼椿俊太郎さんHP

http://shuntaro.php.xdomain.jp/

 

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